ちっちゃな土窯資料館

炭小屋の東側に建築していた休憩所及び製品置き場が完成しました。7坪程の小さな建物です。夏はこの建物とは広場を挟んで反対側の日除けの下のベンチが涼しくてコミュニケーションの場となっていましたが、冬は休憩所がその役目となります。内装外装とも木材を使用したので木の香りがなかなかのものです。この休憩所の一角を利用して土窯づくりの資料を展示してあります。御来訪の節は是非御覧下さい。
現在展示してある資料は、土窯づくりの経過を写真とともに分かりやすく展示してあります。また土窯半兵衛に関する遺跡なども写真で紹介してあります。
【資料館を訪れて下さいました方は木更津市八幡台の石井重雄さん御夫妻と愛ちゃん】
土窯づくり展示写真前の棚にいろいろの樹木の原木と焼いた炭を並べて展示してあります。
カシ、コナラ、クヌギ、イヌシデ、ウメ、マテバシイ、ヤマザクラ、ヤブツバキ、サカキ、ヒノキ、スダジイ、トネリコ、カマツカ、クロモジ、ハリエンジュ、ムラサキシキブ、ホオノキ、エノキ、アセビ、ヤマボウシ等です。データには樹木の清和方言名も記載してありますので御覧下さい。

土窯半兵衛遺跡案内

三経寺
市宿三経寺は浄土宗のお寺です。境内には土窯半兵衛顕彰の碑があります。この碑は炭焼がまだ盛んだった昭和28年12月に建てられたもので、除幕式の当日は近郷の炭焼関係の人たちが大勢集まり大変なお祭り騒ぎだったということです。

土窯半兵衛の墓
三経寺の境内には半兵衛の墓があります。墓石には「心縁常性信士・安永元辰年十二月十一日・相州土肥鍛冶屋村・俗名常盤半兵衛」と刻されています。相州土肥鍛冶屋村は現在の神奈川県下足柄郡湯河原町鍛冶屋です。安永元辰年十二月十一日は西暦
1,772年なので、今年は没後232年となります。

土窯半兵衛の焼いた炭
市宿三経寺には寺宝である「土窯半兵衛の焼いた炭」が保存されています。元々は豊英の原田昭治さん宅に代々伝わっていたものですが、昭和28年の顕彰碑除幕のとき展示され、そのまま三経寺で預かっていたもので、現在は御本人の意により半兵衛にゆかりの深い三経寺で大切に保存されています。
三経寺境内にある土窯半兵衛顕彰碑碑文
俗名常盤半兵衛 相州土肥鍛冶屋村ニ生ル、宝歴年間本郡山間部
落ヲ訪レ築窯製炭ノ指導ニ獻身、住民ニ其ノ祖ト仰ガレツツ安永元年十二月十一日秋元村ニ没ス、郷人土窯半兵衛と敬称今尚其ノ徳ヲ讃フ 當地方ハ農耕特産ニ恵マレズ生計タメニ窮迫セルモアリシガ氏ノ指導ニヨリ「上総木炭」ノ名聲ハ江戸横浜ニ洽ク住民皆其ノ堵ニ安ンズルニ至ル 尓来二百年草創ノ恩人トシテ明治年間三石山ニ碑ヲ建テ些カ顕彰スル處アリシガ星霜久シキニ亘ルニ及ビ其ノ効績ノ埋ルコトヲ惧ルルニ至ル 時恰モ當地ハ縣下ニ於ケル大量生産ト技術ノ優秀ニヨリ愈々盛運ニ向イツツアリテ即チ永遠ニ其ノ功ヲ讃エ勞苦ヲ偲ブタメノ有志相圖リ更ニコノ碑ヲ建立ス
昭和二十八年十二月  題字 千葉縣知事 柴田 等書

        碑文 君津地方事務所長 鈴木義光書

【参考】常盤半兵衛は今から250年ほど前に相州鍛冶屋村からやってきました。その当時この地では原始的なホップセといって地面に穴を掘って木を燃やし消してから掘り出すという効率の悪い製炭が行われていました。半兵衛は築窯による製炭の技術を指導しました。君津の山間部はカシ等の材料にことかかなかったため炭の生産は上がり、大量の炭が川船で木更津に送られさらに江戸へと運ばれました。一躍上総木炭の名は広まり、貧しかった村も経済的に潤いこの地では長い間恩人として仰がれていました。

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